残 -ZAN- 3P
申の刻。夕暮れにはまだ時間がある。 人里離れた山の麓。生い茂る草木を掻き分け、弥勒は歩を進めた。 木々に囲まれひっそりと建つお堂。 大衆が集うというよりも修行僧が一人精神鍛錬するのに丁度良いようなこじんまりとしたお堂だった。 中を確認するがやはり人の出入りがあった形跡は微塵もない。 祭られていた像や調度品はとうの昔に野盗に持ち去られているし今あるのはヒビの入った蓮台と自ら持参した行燈だけ。床は所々傷み歩く度にギシギシと音が鳴る。 自分は此処へも自身を慰める為に以前から時折来ていたが、殺生丸はこの場所が判るだろうか。少し不安がよぎったが、すぐに思い直した。彼は妖怪なのだ。まして鼻の利く彼なら自分のにおいを感知し、なんなく此処へ辿り着くだろう。 「・・・さて、準備しますかね。」 ぼそりと一人呟き、弥勒は懐から護符を取り出した。 やがて陽も傾いてきた頃、お堂の入口にぼんやり座っていた弥勒は立ち上がり音も無く現れた待ち人ににっこりと微笑んだ。 「お待ちしていましたよ。」 「・・・・・・フン。」 殺生丸は嘲るように鼻で笑い、弥勒と目も合わさずお堂の中へと入っていった。 美しい長い髪が揺れるのを横目で追いながら弥勒はお堂の扉をゆっくりと閉めた。 完全に外と遮断され、明かりは小窓に張られた障子から入る僅かな光だけ。それすら周囲の鬱蒼と茂る樹木に遮られて中は薄暗い。 弥勒は用意していた行燈に火を灯した。 「必ず来ると思っていました。」 「・・・・・・」 「だけど・・・貴方がこんな子供騙しに引っ掛かってくれるとは思いませんでしたよ。」 そう言い、弥勒は懐から小さな布切れを出した。 殺生丸はその布を表情一つ変えずに見つめた。 「もうお分かりかとは思いますがこれですよ。貴方が気になった犬夜叉の血のにおいの正体。」 「・・・・・・」 楓の村でこの堂へ招かれたときも犬夜叉の血のにおいが気になったなどとは一言も言っていないし、此処へ来たのもその為ではないがわざわざ反論するのも馬鹿らしい。布に染みているらしい血も僅か。それも渇いていて付着してからおそらく数日経っている。気に掛けるに値しない。 それよりも本当の目的は何なのか。 あの夜のことをこの自分に問うつもりなのか。 殺生丸は相手を見定めるように黙っていた。 「ふ・・・ご安心ください。これは私が犬夜叉を傷付けて付いた血じゃありません。たまたま先日犬夜叉が湯飲みを割って怪我をしたときに付いた血です。今日犬夜叉が居なかったのも楓さまからの頼まれ事で琥珀の元へ行っているからです。」 「・・・・・・」 「琥珀は今この辺りから遠く離れた北の地に居ます。犬夜叉はきっと今夜は帰らない。」 そんな事はどうでも良いし、見当は付いていた。 これまでだって楓の村へ出向いたとき犬夜叉が居ないことなど何度もあった。でも不都合はない。においで相手の所在が判る自分達には約束など必要ないのだから。 そもそも自分が楓の村へ行くのはりんに会う為であって犬夜叉との逢瀬が目的ではない。 ただ、あのとき風から微かな犬夜叉の血のにおいがしたから周囲を見たのだ。だがこの法師からだと判ったとき興味は薄れた。先程法師が話したようなことだろうと分かっていたから。 まさか血の付いた布をわざわざ忍ばせているとは思わなかったが。 そうまでして自分に何の用があるのか。 「・・・それで・・・?」 「・・・・・・」 「・・・・・・目的は何だ。」 「・・・そう急がずに。せっかく二人きりなんです。」 弥勒の真意を分かりかねて殺生丸は訝しむが、弥勒はそんな相手の様子を絶妙に見計らいながら隅に置いていた酒瓶を手に取った。 実のところ行燈と一緒に酒と杯まで用意していたのだ。 「まあ、酒でも・・・」 「・・・・・・用件がないのなら・・・」 そんなことならばこれ以上此処に留まる理由はない。 殺生丸は入り口へと進んだ。 だが、扉に触れようとする殺生丸の手首を弥勒は強く掴んだ。 「・・・・・・ッ」 殺生丸は苛立ち、怒気を込めた眼で弥勒を睨んだ。 振り払おうとしても弥勒は手を離さない。 「・・・何のつもりだ。」 「・・・・・・貴方と酒が飲みたかった。」 「・・・・・・」 馬鹿馬鹿しい。 何を考えている。この法師は。 “酒を酌み交わして男同士で語らう“など、人間の戯れにまさかこの自分を付き合わそうというのか。 こんな場所で。 そう『こんな場所』だ。入ったときから此処は居心地が悪い。僧侶の浄化の念でも残っているのか。人為的に清められた場所は妖怪にとって清浄な場所ではない。 それをこの人間に悟られないうちに早く去りたいのに。 未だ掴まれたままの手首から伝わる相手の熱が気持ち悪い。 「お酒、お嫌いですか?」 「・・・・・・」 「それとも・・・もしかしてお酒弱いですか?・・・貴方、犬だし。」 この台詞には冷静な殺生丸もあからさまにムッとした。 奈落との闘いから数年経ち容姿は今では弥勒のほうが若干年上に見えるかもしれないが、仮にも大妖怪であり遥かに永き時を生きてきた身。殺生丸にとって弥勒など人間の小僧っ子に過ぎない。 そんな弥勒から犬呼ばわりとは。 「すみません、気に障りました?・・・でも貴方と酒が飲みたかったのは本当なんです。」 「・・・酔狂な・・・」 「まあ、こちらへ・・・」 「・・・・・・」 今度は人の良い笑顔を見せる弥勒に優しく手を引かれ、渋々と座った。 人間の酒など自分には効かない。だがいちいち弁解するのも馬鹿らしい。気が済むまでこの酔狂な宴に付き合ってやろうではないか。 逆に相手が酔い潰れ中毒死するまで酒を酌み交わしてやろうか。 向き合って座る弥勒が杯に酒をなみなみ注ぐ様子を見ながら殺生丸はそんなことを思った。 |
||
3P | ||
← back next → |