かすみの楔 −相生−
殺生丸から腕の事を責められたことは一度もない。
あの出来事を口にしたこともない。
親父の遺した天生牙と鉄砕牙・・・刀身を交えた命懸けの太刀合い。
そのことにどんな思いがあったのか。
真意は俺には解らないが、殺生丸の中で何かが決着し一掃されたのならそれでいい。
今まで大声を張り上げて互いをなじったり拳を交えて殴り合うような喧嘩こそしなかったが、あの太刀合いこそがこれまでの全てをぶつけた最初で最後の俺たちなりの大喧嘩だったのではないだろうか。
神経も筋肉も完全に断裂した左腕。
医者の宣告通り「動かない」なら、一生俺が補っていく。
同居を買って出たのは、殺生丸を助けていこうと思ったからだ。
その気持ちに偽りはない。
だけど実際一緒に住んでみると家事全般は俺が率先してやっているものの殺生丸は右腕だけでほとんど何でもそつなくこなし、支障があったのは車の運転くらいで俺の手助けなど必要としなかった。
殺生丸は負を負とせず、それならそれでと違う手段を見つけ出し、事の局面を打開してゆく。
加えて奇跡的だったのは左腕が回復していったことだった。
そう、殺生丸の腕は動くようになったのだ。
僅か数ヵ月後の入社する頃には鉛筆程度の重さなら掴めるようになり、今ではもうほとんど健常者そのものだ。
結局あの家に居た頃となんら変わらず、面倒を見ているのはやはり殺生丸のほう。
何も変わらない。
何も変わっていないのだ。殺生丸は。
俺に対する扱い・・・冷たい目線も、蔑む言葉も。
だから俺も愛など持たずに憎み切れば良かった。
少なくとも膨張した黒い欲望がお前に牙を剥くことはなかっただろう。
・・・・・・俺だけが歪んでいく。
“会いたい”
毎日顔を合わせているのにそんなことを思うのは久しぶりにまともにあの時の事を思い返したせいか。
一緒に住んでいるのに恋しい。
だけど一緒に居れば俺はまた―――――――・・・
大事にしたい。優しく在りたいと思う夜ですら、そう出来ないのなら。
22時を回った頃、俺はGパンに財布と携帯を突っ込み家を出た。
己の横暴を回避する術があるとしたら、それは“会わない”ことだ。
ファミレスでもネットカフェでも何でもいい、今夜は何処か他で時間を潰す。
だが、家を出てすぐ予想外の出来事にぶち当たった。
本当に運命はどこまで俺を揺さ振るのか。
エレベーターを降りて1階のエントランスを出たところで、目の前に横付けされた車。
黒のランボルギーニ。数千万はする車だ。
この辺りじゃ高級マンションなんてそこらにあるが、その中でもこのマンションは別格。
だから地下の駐車場へ向かうブランド外車は腐るほど目にしている。
驚いたのは車から出て来た人物とその状況。
なんだよ、これ見よがしにこんな所に止めるんじゃねーよ。邪魔くせーな・・・そう思い、鬱陶しそうに睨みつけながら横切ろうとした時、俺は思わず二度見した。
よく知った顔と見慣れない男。
身形だけでいえばホストみたいな野郎。そいつにエスコートされるように車から出て来たのは殺生丸だった。
俺は驚いた。
相手もそうだろう。
よもや俺と外で会うとは思わない。
何処で出くわそうと不思議ではないが、生活スタイルのズレから今まで滅多に外で顔を合わせたことはない。
殺生丸も少し動揺した風だった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
お互いに無言で僅かな間見つめ合ったが、車の持ち主からの呼び掛けに殺生丸はスッと目を逸らした。
「殺生丸。今度のプレゼンに必要な資料、渡しておく。」
「ああ、助かる。」
「見積は俺が精査しておくから、お前は詳細を先方にメールしておいてくれ。」
「ああ。」
察するに車の持ち主は殺生丸と同じ会社の人間。ということは、一見ホストまがいのこの男もお育ちの良い超エリート野郎ってことか。
俺の知らない男と俺の知らない世界の話。
初めて見る仕事の顔。
「・・・部屋まで送るか。」
「いや、ここでいい。」
俺を無視して延々と話し始める気なのか、と少しイラつき出したときにこの会話。
男同士で“部屋まで送る”って何だよ。
一体どんな関係なワケ?
「そうか。」
「上がってもらいたいところだが今日は・・・」
「気遣いは不要だ。」
「・・・悪いな、死神鬼。」
「いや。」
・・・俺の知らない日常の殺生丸の姿をこの死神鬼とかいう男は知っている。
俺のことは終始邪険にするくせに普段はこうやって色々な人間と会って会話して他人を気遣ったりもするんだな。
俺が優しくしなくても慕わなくても殺生丸は他の誰かに優しくされ慕われる。
殺生丸にも親しく付き合う友人がいるのは当然なのに、裏切られたようなこの気分。
だって俺は。会いたくてたまらなかった。ただ、顔が見たい。無性に愛しい。だけど今夜は自分から身を引いた。自身の毒牙にかけたくなかったから。
俺がそんな思いでいるのにお前は他の誰かとよろしくやっていた。
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