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かすみの楔 エピローグ−夏至の夜−






 ・・・どうしてこうなったのか。

 俺は今――――――・・・南米の森の中で迷子だ。


 迷子というよりもしかしたら生か死か瀬戸際の位置にいるのかもしれない。
 もはや諦めの境地か。それとも冷静な本能か。とくに焦りなく上体をなんとか起こし自分の身体を確認した。

 全身が痛んだが腕は折れていない。両腕とも動かせる。腰の骨が折れていたら最悪だと思ったが背負っていたリュックのおかげか打撲程度だ。こんな使い古したボロリュックでも役に立つとは。とにかく助かった。
 頭も多分大丈夫。視界が霞んでいたら脳挫傷の恐れもあったがそれもない。
 あんな所から転げ落ちてよく生きていたもんだ。
 運が良いのか悪いのか・・・どちらかというと今この場合本当のところ後者かもしれない。
 トラやライオンは居なくともガイドブックにも載っていないこんな異国の秘境のような地でどんな肉食獣が襲ってくるか分からない。気を失っている間に喰われなかったのは幸運だったとすべきか。
 体のどこも外傷はかすり傷程度で大きな怪我もなく血を垂れ流すような惨事に至っていないから獣に嗅ぎ付けられずに済んだのかもしれない。

 とにかく一刻も早く山を抜け出したかったが動こうに動けない。
 もう今は夜だ。
 下手に動いて更に深みに迷い込んで誰にも発見されない、なんてことになりかねないばかりかもう一度滑落する恐れもある。
 それに、動けない最大の理由があった。
 左足首。
 折れているのか何なのか。動かせない。動かすと激痛が走る。目が覚めて意識がはっきりしてから少し身体を動かしてすぐに走った痛み。
 だからさっき体を起こす前に最初から足は諦めている。

 今という時間が自分をどこに導こうとしているのか。
 このまま無事に朝を迎えられたらとりあえずラッキーとしよう。
 だってもうどうもしようがない。なるようにしかならない。
 少なくとも今夜自分がここに居るという事を知っているのは間違いなく己一人。
 誰も来ない。

 気持ちが整ったところで俺はぼんやりと空を見上げた。

 こんなに落ち着いていられるのは動けないとはいえ存外大きな怪我を負わずに済んだからだろうか。
 もし四六時中痛むような傷を負っていたら精神的ダメージでもっと焦っていただろうし、差し迫る身の危機があったら錯乱状態に陥っていたかもしれない。
 差し当たって空腹もないし尿意もない。少し問題なのは服装か。昼の気温は丁度良いがボリビアの夜は冷える。でもまあそれなりの格好をしているし大丈夫だ。
 リュックの中には2、3日凌げるくらいの最低限の簡易食料も入っている。


 あ・・・星が・・・綺麗だ・・・・・・

 街灯が一切無い山奥から見る星空は本当に綺麗だ。


 もっともこの辺り自体が観光地とは外れた穴場中の穴場で人は少なく当然洒落たホテルなども無いから人工的な明かりは元々少ない。加えて俺が今居る山は地元の住人に尋ねなければ入っていけないような隠れスポット。下山した麓の湖でキャンプファイヤーをしながらでも十分綺麗だっただろうが。


 とにかく星が綺麗だ。
 三日月と相まって本当に美しい。

 こんな夜にあいつが居たら。

 どうしようもなく愛しい男の顔が浮かんだ。
 もう久しく会っていない。

 それでも声も顔もはっきりと思い出せるのはずっと大事にしている記憶だから。
 この二年半。


 そう、最後に見た記憶。初めて合意でもって殺生丸を抱いた夜。そして俺のベッドで眠る殺生丸を残して家を出たあの朝。
 あれから二年半近くも経っていた。

 長いようで短いあっという間の。
 でもお前を想うと会いたくて会いたくて、やっぱり会いたくて。
 酷く長い時間だった――――――――――









 ボストンに着いてからホームステイ先のシェアハウスへ向かう途中で携帯の電源を入れたが、着信履歴もなく留守電には何も入っていなかった。
 少しの期待と予想が外れて安堵したような哀しかったような複雑な想いを抱いたのを覚えている。

 殺生丸から連絡があったのは着いてから3日後の夜だった。
 怒るでもなく心配するでもなく、家族が日本と外国で離れ離れになったら誰でもするようなごく普通の兄弟の会話をした。
 当然男同士の会話に甘い響きなど一切あるはずもなく。
 でも俺は声を聴けてほっとした。単純にすごく嬉しかった。

 事実上見送りを拒否して勝手に旅立った俺をどう思っているのか。
 朝目が覚めてそれが分かったとき、殺生丸はどう思ったのか。
 俺には分からない。けど、連絡が3日後だったのは単に時差を考えてのことだったのかもしれない。相手も仕事がある身だし俺も長いフライトを経ての初めての外国だ。互いを考慮しての気遣いなのかもしれない。
 それに多分俺から先に連絡を入れるのが筋なのだ。
 でも無言で何の別れの挨拶もなく旅立ったのはそれが嫌だったからだ。別れの挨拶とか。空港の搭乗口で別々の方向へ歩む互いの姿とか。想像しただけで俺は。

 きっと殺生丸は全部察したのだろう。思うところがあった。
 俺との日々。その中で知った俺の本当の気持ち。お互いの想い。遂げさせてくれた最後の夜。

 勝手をした俺からの連絡を待つつもりだったのかもしれないが、そこは家族として兄として百歩譲って先に連絡をくれたのだろう。
 心配なんて口にしなくとも、心配したから連絡をくれた。
 もう俺にはそれが解る。
 だから嬉しかった。

 でも内心罪悪感のようなものはあった。
 初めから俺は殺生丸に嘘をついていたから。




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